東京カウンセリング|軌道修正...Episode2:カウンセラー通信
□東京カウンセリング|軌道修正...Episode2:カウンセラー通信
「ママちゃん」を書いたのでやっぱり「パパちゃん」も、、、、。
父(パパちゃん)は、若い頃学校の先生になりたかったが、
戦争中の事で、勉強よりも体力が優先されていた時代だったから、師範学校に入れなかったと良く話していた。
学期末に私達が通信簿を持って帰ると、パパはこうだったのよと、
母から全て優の通信簿を見せられた。
私達が子供の頃の父は、どんな時でも正統派文学本を読んでいた。
年とともに傾向は変わりちょっと?だいぶ? エッチな本にはなったが、読む事が好きな父だった。
とにかく、歴史、人物何でも知っていた。
私は、男の人は皆何でも知っているものと思って大きくなったが、主人と結婚して歴史上の人物の説明をしてくれない事を、
とても不思議に思った事がある。
若い頃から、あまり仕事に恵まれず、40近くなり自分で仕事を興し、脳梗塞で倒れてから亡くなるまでの十余年も仕事を辞めようとはしなかった。
金銭的には、どうであれ最後までやりきった父をすごいと思う。
多分、真中で育った私が一番父にしかられた。
とにかく「根性が悪い」っていつも言われた。
「根性が悪いって?」て聞くと、そうやって聞き返すことだと言ってさらに怒られた。
ある日、父が出勤する時、私の机上が汚いから帰るまでにかたずけておくように、かたずけないのなら、家から出て行けと言われ、
私は、かたずけず家から出る選択をし、裏庭に隠れた。
母と姉は必死で私を探してくれた。
毎週日曜に、近くの子供達7,8人と教会に通っていた。出かけに献金にと 5円か10円を母からもらい、ぶらぶら遊びながら行くのが楽しみだった。
その内、献金の内から駄菓子屋で何円かお菓子を買っていくようになり、より一層楽しみになった。
その事は、皆の内緒事だったのだが、私が不意に言った一言で、父が気ずいた。
未だにどうして気ずいたのか分からないのだが、姉と私はかなりしかられ、それからしばらくは教会へ行けなくなった。
ある時、たんすの上の裁縫箱からはぎれが出ていて蓋がきちんと閉まっていなかった。
「最後に使ったのは誰だ」って父が言った。
姉も私も「私じゃないよ」と考えもせず怖いから言い切った。
父は、「どうしてそんなにはっきり答えられるんだ!」と
私達は「だって私じゃないもん」て又言った。
父は「人間絶対何てないんだよ、もしかしたら自分かもしれないって考えてごらん、そしたらもっと優しい言葉が出てくるよ。」
ってパパは優しく言った。
父はいつも最後には、「女は可愛いのが一番何だ、おまえもそうだぞ」って諭された。
私は、男女平等なのにって心の中では思っていた、
が、年を重ねるごとに父が伝えようとした気持が理解できるようになった。
貧しい中で、父は家族の思い出も作ってくれた。
時には、会社の車を借りてきて、夏休みの思い出にって日帰りで海に連れてってくれた。
車は 360㏄ カブトムシって呼ばれていた。
途中、ちょっと早い車が来ると 「パパ、あの車抜かして、抜かして」って姉弟とはしゃいだ、
パパも「よ~し!」てエンジンいっぱいにふかした。
長い夏休みのたった一日の日帰りのお出かけ、でもそれはいつでも海の輝きと共に思い出す。
父は、どんなに家にお金が無い時でも、お客さんが来ると歓待し、必ず寿司、酒が決まりだった。
私は、そんなに無理しなくてもっていつも思っていたが、
父は、無理しているのではなく、心から出来る限りもてなす気持を表していたのだと最近思う。
そう言う父の元私は育った。
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セラピスト紹介 【MAYUMI】
1985年~1992年 ニューヨーク駐在の主人と共に米国滞在を経験。
現地では、小学生と中学生の息子の教育の為、アメリカンスクール、
週末には、日本の補修授業校へ子供達を通わせると共に、
本人も大学へ通い、日本とアメリカとの教育の違いに触れた。
特に、子供一人一人の個性を大切にするアメリカの教育に共感し、
帰国後は、留学を通じて不登校の子供達の自立へと導く仕事につき、
子供達の才能を確立することに従事した。
その後、2006年より再度駐在となった主人と共にロサンゼルスでの生活を経験する中、
ロスにてカラーセラピスト、アロマテラピストの資格を取得する。
2013年秋帰国。
現在では、セラピストとして活動している。
例えば、子供の能力を見つける魔法の言葉をお母さんたちに伝えたり、
共働き夫婦の上手な付き合い方やストレスを貯めない心作りを提唱している。
ブリティッシュカウンシル留学カウンセラー
カラーセラピスト
アロマテラピスト